属人的継承が必要な時期もある

未成熟な社会では、属人的な継承が必要な場合もある。
属人的な継承を必要としないのは、ある一定のシステムが構築された場合に限られると思う。

属人的な継承が、前代の負の遺産を背負い続けるとは限らない。
批判的な継承は、属人的な立場だからこそ可能になると考えることもできるからだ。

システムが構築されるほど発達した社会では、属人的継承は排除されるべきだろう。
しかし、未成熟な社会・組織にあっては、属人的な継承が不可欠になると考える。

まったく無関係な継承が行われるとどうなるか。

そこには断絶しか生まれない。
断絶が生まれれば、そこからまったく新しい社会・組織が作られ始めるにすぎない。
これまで長い年月かかって構築された社会や組織を放棄して、まったく新しいものを作り上げることにも、意義はあるかもしれない。
しかし、そこに至るまでの歴史をまったくなきが如く扱う断絶は、歴史への冒瀆としか言えない。

歴史を尊重することなしに、新しいものを生み出すことはできない。
過去から学びなくしては、新しいものを生み出すことは不可能だと考えるべきだ。

企業においても、属人的な継承は起こる。
個人商店などその典型だろう。
企業が巨大化して、不特定多数の人々が関わりを持つようになれば、継承は誰にでも可能となる。
その場合には、組織として継承すべきシステムが構築されていることが前提となる。

大企業となっても、一族経営が続けば、批判される。
それは、組織がシステム化されているにもかかわらず、閉鎖されたなかでの継承が行われているからに過ぎない。

国家においても、一族による継承がおこなわれて時代が必ず存在する。
一族による継承が重視されていた社会を国家とは呼ぶべきではないかもしれない。
近代国家では、属人的な継承が前提となる「王」の存在が典型であったとすれば、一族による継承を国家成立の指標とすることはできない。

日本の律令国家においては、天皇権は継承されてきた。
実際的な血縁関係の有無の問題ではなく、擬制的であるにせよ、血縁による一族での王権の継承がおこなわれていた。
それが他に渡ることのなかったことが、日本の天皇制の特徴ともいうことはできようが。

システムが構築されていない未成熟な社会や組織は、閉鎖的であるべきだと思う。
閉鎖的であればあるほど、大きな発展の可能性を秘めている。
閉鎖的な中でこそ、次世代の開放を求めることが可能になるのだ。
開放されれば、常に、崩壊の危険性に曝されなければならない。
崩壊を防ぐ最上の手段が、閉鎖することなのだ。

閉鎖された状況を、維持し続けるということではない。
閉鎖された中で、開放を目指した運動を続けていくことが重要だ。
閉鎖から開放へという道程なくして、正常な発展は有り得ないと考えるべきなのだ。

開放すれば良いというものではない。
あらゆる社会・組織で、非属人的な継承をおこなうべきではない。
属人的な継承をおこなうからこそ発達する社会と、非属人的な継承だからこそ発展できる社会・組織のあることを考えるべきだ。

ただ言えることは、未成熟な社会・組織では、属人的な継承から始めるべきだと考える。
その中で、発達・成熟した社会や組織を形成することが重要だ。

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このページは、管理者が2010年7月12日 22:03に書いたブログ記事です。

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