2010年7月アーカイブ

嫌いだって楽しんでやりましょう

嫌いなことだって、やらなければならないことは、たくさんある。
それが社会の中での義務というもの。
義務を果たさない者に、権利は主張できない。

義務としてすべきことを、きちんとこなして、初めて主張ができる。

それがわかってないんだよなぁ。
義務だからと嫌々やっていたら、楽しくなんかならない。
楽しくないから、ますます嫌になる。

悪循環ですよ、悪循環。

その悪循環を止めることは、自分しかできない。
意識の問題で、悪循環はすぐに終わる。

やらなければならないこと。
社会の中で果たさなければならない義務と責務。

楽しんでやるしかありません。
楽しいという意識を自分の中に作り出すしかありません。。
自分で自分を楽しいと思い込ませるしかありません。

自分を思い込ませる力。

これが一番大切な力になることがある。

自分の好き嫌いで仕事を進めてはいけない。
好きか、嫌いか。
やりたいか、やりたくないか。

やりたいから積極的にやる。
やりたくないから避けようとする。

ちょっと待ってくださいよ。
仕事ですよ、仕事!

仕事というのは、そういうものじゃあないですよ。
誰だって、やっていることがすべて好きという訳じゃない。
嫌々だってやっていることがいっぱいある。

自分だけ嫌いだからやらない、は許されませんよ。

残念なことですが、仕方がありません。
日本のケータイはキャリア主体で動いているということを、まさに感じさせるニュースではないでしょうか。

キャリアの考えるユーザーのため。

これが日本の企業文化。
ユーザーのためを考えたキャリア主導のケータイ開発が、ガラパゴス化を招いたというのに。

ソフトバンクの副社長の言葉がすごい。

ドコモは技術力があるのだから、iPhoneを超える商品を作ればいい

すごい発言です。
iPhoneはAppleだから作れたのです。
かのマイクロソフトでも、iPhoneを超える商品は作れませんでした。
Googleは微妙ですが、まだまだiPhoneを超える商品は作れないのです。

iPhoneが生まれたのは、単に高い技術力が問題ではないのです。
センスの問題なのです。
そして、Appleだからできた企業文化なのです。

作ってみたいですねぇ。
ドコモでiPhoneを超える商品。
ある発想を注入すれば、できると思っています。
ソフトバンクの副社長の発言に見られる発想を裏返せば良いだけです。

http://journal.mycom.co.jp/news/2010/07/13/012/index.html

クラウドの権力闘争勃発?

少しオーバーかな。
でも、どこがクラウドの主導権を握るか、ということでの富士通とMSの協業には違いない。

クラウドが「第三の波」を大きく進めるのか。
クラウドが、ユビキタス社会への歩を進めてくれるのか。

これまで理論でしかなかった社会が、現実化しそうで恐ろしい。
現代に生きる我々は、これまでの人類が経験することがなかった大きな変化のなかに生きている。
未曾有の変化。その大きさは変化というよりも、革命というに等しいのかもしれない。

日進月歩の世界。
時代の流れが、急流から激流に移ったようにも思える。


我々は、川を上流に遡っている。
河口近くのなだらか流れから、中流域の穏やかな流れへとゆっくり遡上してきた。
一気に上流域の急な流れが、さらに水源に近い急激な流れへと遡ってしまった。

コンコンと湧き出でる水源にたどり着くことはできるのだろうか。
その時に初めて、振り返るということができるのかもしれない。

クラウドが動き出している。
あっという間に、当たり前の環境になってしまいそうな勢いだ。

サーバサイドのコンピューティング。

クラウドとはこういう理解で良いと思う。
「第三の波」では、所有形態も大きく変わってしまうということになる。
富が情報に集約される時、その所有は個ではなく、クラウドになるということだろうか。

物質主義から情報主義に変化した時、所有のあり方まで変化するとは誰が予想しえただろうか。
クラウドを治めたものが、最大の富の蓄積に成功したことになる。
しかしそれが、これまでの所有とは意味がことなっている点が見逃せない。

菅首相は正直すぎたということでしょう

参議院選挙での民主党の敗北。
原因は、菅首相が唱えた消費税の増税という見解が出されています。

いまの財政状況を考えれば、増税止む無しなのでしょう。
そのことの正否は別として、それを正直に口にしてしまったことが良くなかった。

とするならば、正直者がバカをみた、ということも出来るのではないでしょうか。
もしそうならば、残念な選挙結果。

正直であることは、政治の世界では良いことではないということになってしまう。

属人的継承が必要な時期もある

未成熟な社会では、属人的な継承が必要な場合もある。
属人的な継承を必要としないのは、ある一定のシステムが構築された場合に限られると思う。

属人的な継承が、前代の負の遺産を背負い続けるとは限らない。
批判的な継承は、属人的な立場だからこそ可能になると考えることもできるからだ。

システムが構築されるほど発達した社会では、属人的継承は排除されるべきだろう。
しかし、未成熟な社会・組織にあっては、属人的な継承が不可欠になると考える。

まったく無関係な継承が行われるとどうなるか。

そこには断絶しか生まれない。
断絶が生まれれば、そこからまったく新しい社会・組織が作られ始めるにすぎない。
これまで長い年月かかって構築された社会や組織を放棄して、まったく新しいものを作り上げることにも、意義はあるかもしれない。
しかし、そこに至るまでの歴史をまったくなきが如く扱う断絶は、歴史への冒瀆としか言えない。

歴史を尊重することなしに、新しいものを生み出すことはできない。
過去から学びなくしては、新しいものを生み出すことは不可能だと考えるべきだ。

企業においても、属人的な継承は起こる。
個人商店などその典型だろう。
企業が巨大化して、不特定多数の人々が関わりを持つようになれば、継承は誰にでも可能となる。
その場合には、組織として継承すべきシステムが構築されていることが前提となる。

大企業となっても、一族経営が続けば、批判される。
それは、組織がシステム化されているにもかかわらず、閉鎖されたなかでの継承が行われているからに過ぎない。

国家においても、一族による継承がおこなわれて時代が必ず存在する。
一族による継承が重視されていた社会を国家とは呼ぶべきではないかもしれない。
近代国家では、属人的な継承が前提となる「王」の存在が典型であったとすれば、一族による継承を国家成立の指標とすることはできない。

日本の律令国家においては、天皇権は継承されてきた。
実際的な血縁関係の有無の問題ではなく、擬制的であるにせよ、血縁による一族での王権の継承がおこなわれていた。
それが他に渡ることのなかったことが、日本の天皇制の特徴ともいうことはできようが。

システムが構築されていない未成熟な社会や組織は、閉鎖的であるべきだと思う。
閉鎖的であればあるほど、大きな発展の可能性を秘めている。
閉鎖的な中でこそ、次世代の開放を求めることが可能になるのだ。
開放されれば、常に、崩壊の危険性に曝されなければならない。
崩壊を防ぐ最上の手段が、閉鎖することなのだ。

閉鎖された状況を、維持し続けるということではない。
閉鎖された中で、開放を目指した運動を続けていくことが重要だ。
閉鎖から開放へという道程なくして、正常な発展は有り得ないと考えるべきなのだ。

開放すれば良いというものではない。
あらゆる社会・組織で、非属人的な継承をおこなうべきではない。
属人的な継承をおこなうからこそ発達する社会と、非属人的な継承だからこそ発展できる社会・組織のあることを考えるべきだ。

ただ言えることは、未成熟な社会・組織では、属人的な継承から始めるべきだと考える。
その中で、発達・成熟した社会や組織を形成することが重要だ。

評価されるだけのことをしなかっただけ

評価されるだけのことをしなかっただけ。
だから、評価されず、路頭に迷うことになった。

ただそれだけ。

指名されるだけの業績を上げることができなかっただけ。
だから捨てられてしまっただけ。

媚びるような生き方はしない。
言うべきことはきちんという。
正しいことは、正しいと主張する。


これでは好かれるわけはありません。
他からの評価を手に入れないとダメなんだろうか。

民主党が議席を減らしました

昨年の衆議院選挙で大勝した民主党。
結局、尻つぼみ?

今回の参議院選挙では、大敗。
既存の議席を10ほど減らしたのですから、大敗で良いと思います。

安定しないということですね。


選挙の結果を見ながら思ったこと。
安定よりも、より良いものをという発想が優先されたと言うべき結果でしょう。

衆議院と参議院の最大の議席を持つ政党が違う。
政権交代以前の民主党と自民党の逆、が生まれたことになります。
混乱必至を選んだということでしょう。

国会は再び、ねじれてしまいました。
ねじれを選んだのも我々。
ねじれにしたのも我々。

安定よりも混乱。

ねじれによって生まれるのは、混乱だと思います。
もちろん、安定の可能性がない訳ではありません。
民主党と自民党の大合併が起これば、国会は安定の場となるでしょう。


今の時代が、如何に先行き不透明かを如実に表しているということでしょう。

何がどうあるべきかの価値観が、揺らいでいるといっても良いかもしれません。

民主党による政権交代が価値観の転換を生み出さなかった証拠でしょう。

運命には逆らえないと思うと

嫌なことが無くなるような気がしてきました。
自分が何でもできるような、稚拙な思い込みがあったんですねぇ。

運命には逆らえないんですよね。
ほんの小さなことでも、自分の歩く道は決まっているんですよ。
我々は「神の見えざる手」によって、導かれているにすぎないのです。

そう思えば、嫌なことが消えていきます。
悲しみや悔しさも消えていきます。
怒りなどの不愉快な感情が薄れていきます。

だってそうでしょ?

我々、人間ではどうすることもできないのですよ。
目に見えない力が、我々には働いているんですよ。

「神」がなんであるかはわかりません。
キリスト教でいうところの神様かもしれません。
イスラム教のアラーの神かもしれません。
仏教でいうところの「神」に当たるものかもしれません。
日本の八百万の神かもしれません。
さまざまな小さな宗教の神様かもしれません。
それがどのような神様であっても、良いのだと思います。

我々にはどうすることもできない力がどこからか、我々を導いているのです。
それが地球の力なのかもしれません。

運命。
定め。
従わざるおえない何かがあるのです。

必要とされる場で働くようにできているのです。

人事を尽くして天命を待つ。

そういう発想で進んでいくしかないのだと思います。
運命に従うのではなく、それに逆らうこともまた、天からは周知のことなのだと思います。
人間のすることなんて、すべて見通されているのですよ、きっと。

あらゆる出来事を定めとして受け入れることが大切だと思うようになれました。
諦めではありません。
前進です。

能力には限界が

自分の能力の限界。

もう10年以上前から気づいています。
限界を感じながら、なぜか広がり続ける世界。
周りの誤解と見込み違い。

僕には周りの期待に応えるだけで精一杯。
そうやって広げてきた自分の世界。

生活の糧を得るための世界。
自分の進みたい世界。
縁として付加された世界。

3つの世界が、交錯したり、離れたりしながら、今の自分を苦しめ続けています。
もう限界だと思います。
3つの融合し得ない世界を、どこかで切り離さないと潰れてしまいそう。

徐々に手放していくことにしようと思います。
それが自分の暮らしにとっては、一番、良いことだと思うからです。
すべての世界のプロを目指すより、全ての世界でスーパーなアマチュアを目指します。
趣味として、スーパーな素人、「超素人」を目指すことにします。

自己完結型の社会からの脱却。
自分さえよければそれで良い、からの脱却。

これまでも、自分さえよければそれで良い、なんて考えていなかった?

なるほど。
確かに、そうかもしれません。

みんなのため、社会のために良かれと思ってやってきた。

なるほど。
そうかもしれません。

個々人が「良かれ」と思ったことでも、それが集まれば、良いことにはならなかったのです。
我々が生きる社会は、我々だけで完結している。
次世代を念頭においているつもり、であっても「念頭において」はいない。

我々は、「接続者」としてある意味を考えなければならない。
我々の存在は、過去と未来の接続者だ。

現代とはかこと未来を繋げているにすぎないのだ。
その意義を、もう一度、考え直す必要があるだろう。

より良き未来のために。

「第三の波」を読み直してみると

アルビン・トフラーの「第三の波」。
1980年に出された時には、衝撃でしたよね。

改めて読み直してみると、改めて思うことが。

狩猟・採集から農業化社会へ。
農業化社会から、工業化社会へ。
そして「第三の波」は、工業化社会から情報化社会へという視座。

これは凄い!
現代国家論!
そう思って読みふけったものです。

アルビン・トフラーが目指すのは「未来学」。
確かに情報化社会は、「未来」。
そして情報化社会が、農業化社会や工業化社会と同等、それ以上の富を生み出すという視点。
情報の創造が富を生み出すという視点。

気になるのは、これまでの創造と「第三の波」が、ある点で大きく異なる点。
「第三の波」の社会は、物質文化としての「物」が作られないこと。
製造、製造業という発想から、絶対的に切り離されてしまうこと。

農業化社会と工業化社会を前提にした「第三の波」。
人類がはじめての体験する「形ないもの」から富を得る社会。
触感では確かめることのできないものが、最大の富を生み出す社会こそが、「第三の波」。

これって、画期的ではあっても、容易に受け入れられるのでしょうか。
「形ないもの」=情報。これが富を生み出す社会。
感覚的に理解することができるのでしょうか。

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